腕立て伏せの歴史
総計14,614,400回、実施日数5,840日、1日平均2,502.47回
(2010.12.31現在まで)
“ 馬鹿も通り越せば天才になる ”
人があまりやらない事を一生懸命にやりたいと思った。
※腕立て伏せの歴史
●各年のレコード(記録回数)
※大会出場レポート
●マッスルエリート (2000.8.24 O.A)
●スポーツ進化論 (2001.3.03 O.A)
※このページは、現在TBSテレビ「スポーツマンNo.1決定戦」他で |
※番組ディレクターを務めておられる福浜和美様より許可を頂いた |
※上で作成しております。 |
※少々長くなりますが、私が現在まで腕立て伏せをこなしてきた経緯を綴ってみました…
〜 幼少時代 〜
喘息とアレルギー性鼻炎を兼ね備え病弱だった私は、あちこちの小児科・耳鼻科へ通う日々を過ごした。
また保育園では何をやってもビリだった。 運動会のかけっこではいつもビリ、皆が外で遊技の練習をしている時間には一人教室に残され、終わらない工作をしていた。
給食を食べるのもビリで毎度のように一人で食器を返却しに行った。 他にもビリが沢山ある…けれどこれらは、私が当時から現在と変わらぬマイペース主義者だった事が原因であったと言える…(^-^; 体が弱い事をコンプレックスに感じる事はなかったが、皆から「はな垂れ小僧」「のろま」と呼ばれるのはやはりちょっぴり辛かった…だからいつも親の迎えを待ちきれず、屋外に設置された下駄箱の所で一人駐車場の方ばかりを見ていた。
小学校に入学すると、病気がちでか細い身体、通院生活は相変わらずであったが、運良く急激に身長が伸び出したので、クラスで一番速く走れるようになった。
県の陸上競技大会に出場したりして、走る事が大好きになった。 友達が沢山できて、本当に楽しい6年間を過ごすことができた☆
〜 中学時代 〜
中学時代、球技・団体競技があまり得意とは言えない代わりに、走る事が大好きであった私は、さほど泳げもしないくせに水泳部に入部した。 陸上部ではない。 しかし顧問は陸上上がりのS先生(中3時には担任もして頂いた忘れられない恩師)であった。 入学して直ぐにS先生は
「水泳部は、走る事も泳ぐ事も両方できるぞ、水泳と陸上は本質的には違いがないからな」と言って私を誘ってくれた。
個人競技は努力すればする程、上へのぼれる。ライバルは、他人ではなく己に他ならない。 マイペース主義の私はそれらの教えを素直に受け入れる事ができたのである。 入部当初、私はしごかれていた…しかしいつの間にか、しごいてもらいに行っていた。 4〜9月は、屋外プールで、水温10〜26℃の世界で、朝夕一日5〜7km泳いだ。
それ以外の月は、分からないぐらい猛烈に走って、方々の駅伝大会に出場させて頂いた。
4月初旬は、泳いで体が冷えたら走って体を温めて、またプールに入って体が冷えるまで泳ぎ続け、また走り…それを繰り返した。
週7日、休み無く3年間、例え血尿が出ても、仲間と一緒にがむしゃらに、S先生について行った。
卒業時には、モヤシの様だった細身の体からも卒業していた。
〜 腕立て人生の始まり 〜
水泳をやめてから、導いてくれる人はいなくなった。 しかし、本来ついていくべきは己自身。 我が身をいじめるも癒すも己の自由なのである。 1990年度4月から私は腕立て伏せを始めた。何のために? カッコいい体を作り他人に誇示したいと思ったからじゃない。 腕っ節を強くして誰かに勝ちたかったからじゃない。 せっかく恩師に培って頂いた我が身の衰えを受け入れたくはなかった事もあるが、何よりも、将来長きに渡り、己と真っ向から向かいあえる何かを続けていきたくなったのである。 それに、私は人があまりやらない事がしたかった。 他人に認められるよりも自分自身が納得できればいい。 ポリシー(こだわり)を持って生きて行きたかった。 だから、こつこつ一人でトレーニングを始めた事を他人に言う必要はなかった。
〜 一人暮らしの始まり 〜
1992年度4月、千葉へ移って一人暮らしを始めてから、腕立て伏せは年月を増す毎に、どんどんエスカレートしていった。
目標を立てて表を作り、グラフを作り、それを部屋に貼って自分を励まし続けた。 大会や試合など、目に見える目標はこの世に存在しない…しかし「パワー」ではなく、ひたすら「回数」を求め続けた。 趣旨は水泳時代とさほど変わりはなく「どれだけ速く長く泳げるか」を、「どれだけ速く沢山できるか」に置き換えただけだ。
よってその方法も水泳の様にインターバルトレーニングを取り入れ、「200M×n本」を、「75回×nセット」に置換してこなしていった。
自分の体重は一定だから、物理的に目に見える筋肉はある程度に達すればそれ以上は付かない。
しかし負荷を増すような工夫はせず、只々回数だけを増やした。 そんな入酸素運動を繰り返した結果、「筋持久力」だけが増えていくことになった。
〜 腕立て競技の出逢いと敗北、憧れ 〜
1996年、腕立て伏せを始めて数年が経ち、私は某テレビ番組内で企画されたある競技に出逢った。 競技名は素人参加の「クイックマッスル(3分間腕立て伏せ)」である。 3分間に何回の腕立て伏せができるか…それを競う単純な競技であったが、そのコーナーは毎週番組の〆で必ず放映され、特番も組まれる程の人気があった。
私は興奮せずにいられなかった…全国に公認される腕立て伏せの競技が生まれたのだ! 当時、その競技には不動のチャンピオン「Y高の微笑みサイボーグ:朝野公平さん(17歳)」がいて、全国各地の厳しい予選から勝ち上がってきた多くの猛者達を、毎回250回以上という驚異の記録を更新しつつ、なぎ倒していった ( → 映像1 映像2 )。 彼は「サバイバル腕立て(時間無制限)」でも1200回を叩いて優勝しおり、王座としての地位を固めていった。 彼を破ることができる男が果たしているのだろうか…!? そんなナレーションを聞いているうちに、いても立ってもいられなくなった私は番組に葉書を書き始めた。
初めて自己満足が公にどれだけ通用するか試してみたいという「欲」が生まれたのである。 大会出場という目標が、初めて生まれたのだ!
その後、競争率が高いためか、なかなか返事は来なかったが、私は懲りずに葉書の小さなスペースに、沢山の想いを綴ってポストに投函し続けた。
すると何と!惜しくも関東大会予選には漏れてしまったものの、東京大会のオーディションに参加できる事になった!
1996年某日、私は相棒(弟)を呼んで、意気揚々と会場を訪れた。
写真 : スタジオでルール説明(左)、センサーの高さ・手幅・手先から足先の幅を確認する私(右)
会場入りして一番始めに驚いた事は、余りにも競争率が高い事だった。 私が呼ばれたのは「オーディション第○日目、午前の部」であった。 それだけでもかなりの人数であるのに、今日は昼、夜にも別組のオーディションがあるらしい…。 しかも私が呼ばれたのは数日に及ぶオーディションの組み合わせのうちの1日なのである。 ずっと己をライバル視し続けてきた私にとって、この様な非常に大勢のライバルを目の当たりにした事は初っぱなから、大きな不安を抱える要因になってしまった。
そして更に不安要因が加わった。 予め電話にてセンサー(顎付き台)の高さ(ビデオテープ2本分)を確認しておいたため、自作のセンサーによる練習でその対策は万全だったのだが、手をつく幅が60cm以内と限定されていたのだ。 テレビの画面からおおよその見当はつけておいたものの、まさかこんなに狭いとは思わなかったのである…。
腕の長さには個人差がある。 ルール上、1回毎にしっかり肘を伸ばさなければ回数がカウントされないので、この手幅は腕の短い人にとっては有利に働く。 言い訳する事は良くないが、私は10代の頃自由形(クロール)をやっていて、腕が人よりも長く成長したので、非常に窮屈な体制となってしまった…。
腕が長い人ほど1回毎のモーションが大きくなるのは自然である。 そんな訳で、私は205回で予選落ちしてしまった…。 練習では240回を出していたのに…しかしそんな自分で作ったルール上の回数など、何の言い訳にもならない程ちっぽけな物に感じてしまった…。
結局このブロックからは、わずか7名の選手が2次予選への切符を手に入れた。
帰りがけ、藤沢からわざわざ応援に駆け付けてくれた相棒が、ロッテリアの2階で落胆する私を励ましてくれた。「これでやめるなよ」…と。 やめる訳にはいかない。 そもそもの目的は、己に勝つために始めた事なのだから…。 ここで自分に負ける訳にはいかない。
その後、私は
(1).手幅
(2).しっかりした肘の曲げ伸ばし
(3).センサーの高さ
を重視した腕立て伏せを直ぐに開始した。
勿論、番組から眼をそらすことはなく、最後まで見届けた。 その事は私にとってとても幸運だった。
競技の集大成となる最終決戦の舞台は「クイックマッスル全日本選手権(1996.09.07)」となったが、そこで衝撃的な出逢いが訪れたのである。 「サバイバル腕立て(記録は1043回)」で、惜しくも朝野さんに破れて以来、打倒朝野さんに燃えていた「みちのくの血だるま将軍:伊藤忠夫さん(23歳)」が、3分間で300回という記録を叩き出し、優勝した ( → 映像 現在サスケを唯一制覇した毛ガニの秋山さんや、有名な山田勝巳さんも出場)。 彼はセンサーに顔面を叩きすぎて鼻や口から多量の血を流していた…。 そして彼は真の腕立てチャンピオンとなり、後の「マッスルレコード9ミニッツ(1997.12.27)」でもやはり血まみれになりながら682回を叩いて優勝した…彼の腕立ては、執念は、余りにも熱すぎて激しすぎた。 圧倒された。 …それ以上の言葉は出てこない。 私の中で、目標となる憧れのヒーローが誕生した。
〜 チャンス!腕立て競技の再来 〜
2000年春、こりずに腕立て伏せを続けていた私に弟が吉報をくれた。 「腕立ての新競技がスタートしている!」 のだそうだ。 私は早速自分の目で確かめてみた。 話は本当だった! 競技名は「三色筋肉」という。 制限時間3分内で、「腹筋→背筋→腕立て」の順に、それぞれを各1分ずつ行い合計回数を競う種目である。 また、「腹筋→背筋」、「背筋→腕立て」のステージの移動時間も制限時間の中で費やさなければならないので、この競技にはペース配分の面白さがある。
つまり自分の得意種目に時間を目一杯割く事が総合記録を高めるためのこつとなるのだ…例えば、苦手な2種目目の背筋を1分間目一杯やってしまうと、ラストの腕立てのステージに登るまでに数秒を要してしまい、開始が遅れて1分間フルに腕立てができなくなってしまうのである。
私は当然番組に葉書を書き始めた。 前回のクイックマッスルでの悔い、日頃の練習内容…色々な想いを込めて。
すると願いが叶い、オーディション参加依頼の通知が届いたのである! 私は今回も意気揚々と某テレビ局のスタジオへ、相棒と一緒に足を運んだ。
クイックマッスルの時と同様に、今回も参加者は大勢いるようだった。 しかし今回は前回ほど不安な気持ちにはならなかった。 類似したオーディションを過去に一度経験済みであったからとも言えるが、センサー対策・手幅・肘の曲げ伸ばしなど、細かいルールを熟知しており、その対策も万全だったからだ。 今回もオーディションは午前、午後のブロックに別れているようで私は午前の部になった。
私のブロックの参加者は外人も含めて40名ほど。 各人1分間の、腹筋、腕立ての記録をとられ、その際にフォームをチェックされた。
そしてそれが終了して1時間ほど休憩した後、面接試験を受ける事ができる10名の名前が呼ばれた。 その時私は幸運な事に1番最初に名前を呼んで頂いた!
次の面接試験は別室で行われた。 私は面接官2名に、自分がやっている格闘技の話は勿論、毎日のトレーニング内容、生徒や日頃私がお世話になっている方々に元気な姿を見せたい…など様々な想いをコメントさせて頂いた。
ある程度の手応えを感じ、前回とは違い少し自信を持って、相棒と2人でテレビ局を後にした。
後日、番組収録への参加依頼の電話が鳴った! オーディションの日からわずか1ヶ月程経ってからの出来事であったが、私にはそれが待ち遠しくて非常に長い日々に感じた。
ようやく舞台へ上がるための切符を手に入れる事ができたのだ…本当に長かった。 ほっと安心すると同時に震えが来たので、翌日からトレーニング内容をどんどんハードにしていった。
今回は腹筋や背筋もあるのだ。 腕立て伏せについては1日1300回程を目安にした。
2000年7月1日(土)収録当日、早朝に軽く腕立て伏せをこなして家を出た。 テレビ局前に集合して、選手は皆バスに乗り込み富士急ハイランドまで移動した。 私が参加したオーディションのブロックから選抜されて来たのは、正道会館のK君と私の2名のみであった。 ここまで残れた事がとても信じられない…でもだからこそ大切な勝負だ、「自分自身との本当の勝負」をするのである!
会場は富士急ハイランドの遊園地内に設置されていた。 私は幸運な事に本日20組の収録のうち、ラストから2番目、キックボクシングで言えばセミファイナルの試合を務めさせて頂くことになった! 相手をして下さるのは静岡出身、元旅芸人の袴田さんで、私よりも年上で紳士だし格好いい方だった。
また会場には相棒が両親を誘って遙か茨城からやってきてくれていた…ありがたい事である。 競技前には番組で放映する選手紹介の映像を撮影した。
…私の中で最高の舞台が整った。 後は頑張るだけだ!
写真 : 富士急ハイランドにて、収録、ご指示、インタビューを受けさせて頂きました!(…相棒撮影!)
さぁ競技開始! 腹筋・背筋・腕立てと全てにバランスがとれている袴田さんに背筋まではリードを許してしまったが、私は早めに背筋を切り上げて、何とか得意の腕立てで挽回する事ができた!
詳しい内訳は「腹筋49 + 背筋43 + 腕立て97 = 合計189回」、暫定的に歴代2位の記録を叩き出す事ができた!( → 映像 )。 しかし率直な感想は「私は力を出し切れてはいなかった…まだまだ行ける!」そんな気がした。 兎にも角にも、仕事を終え、家族にも喜んで頂いた。 素直に嬉しかった。 最終調整の段階では体重も落としていたので、心おきなく食事をした♪ また相手をして頂いた袴田さんには本当に感謝であった。
写真 : 腹筋49→背筋43→腕立て97、合計189回となりました。 競技中は相棒が常に檄を飛ばしてくれました…(^-^;
写真 : 勝利者インタビューの後、袴田さんと握手を交わしました☆
更に収録後日、私の大学での研究の様子、高校で授業をする風景、キックボクシングの練習風景、自室でのトレーニング風景や壁に貼ってある「腕立て伏せの歴史」の表など、選手の「プロフィール紹介」に使って頂くVを、現在TBSのスポーツ番組の制作に携わっている福浜和美さんに数日に分けて撮って頂いた。 お忙しい所、本当にありがとうございました。 そしてそのスケジュールを立てインフォメーションして下さった、同じくTBSの若林真弓さん、常に私の生活リズムを尊重して下さった事を、申し訳なかったです…と思うと同時に大変感謝しております。 また、撮影の際に協力して頂いた千葉工大の山本研究室の皆様、千葉県立茂原工業高校の皆様、ファイティングスポーツクラブ大成塾の皆様…私ごときのわがままにつき合って下さって本当に、本当にありがとうごいざいました!
〜 憧れる人を目指して 〜
その後新たな記録が誕生し、私の記録は2ランクダウンして、それまでに番組出場を果たした選手の中では4/150位となった。 よって、私は上位3位までが出場権利を認められる「決戦大会」なる番組の最終章に突入する事ができなくなってしまった。 この事は私にとって強烈にショックだった。 なぜならその舞台には憧れのクイックマッスル王者:伊藤忠夫さんが上位3位陣の対戦相手として久々に登場する事になったからだ。 決戦大会放映当日、出場漏れした私は一人テレビの前で伊藤さんの233回という圧倒的な力を、クイックマッスル・三色筋肉共に真の王者になる姿を、黙ってこの目に焼き付けていた ( → 映像 )。 もはや順位の事などどうでも良かったが、この競技の終了に伴い、私の記録は6/150位で幕を閉じた。
…その後、腕立て伏せとは全く関係のない別な競技でスポーツ進化論という特番や、体育王国の予選などに出場させて頂いたが、伊藤さんに出逢える日は訪れていない…しかし伊藤さんとは違い余力を残した自分の甘さに対する後悔の念と、いつか彼に会えるかもしれないという、叶う訳のない夢を求め続ける諦めの悪い気持ちを胸に、私は腕立て伏せを続けている。
出勤前、毎朝5時台に起きて最低限、75回×40set=3000回以上をノルマとしてつくった両手ひらの腕立てダコを小さな誇りに思い、そして毎日記録している「腕立て伏せの歴史」と、同じ研究室に所属した友人のお母さん、今村つるさんが言って下さった「あなたは人を求めているのよ…」という大切な言葉を励みにしながら。
〜 これから 〜
千葉へ移り住んで、とうとう18年の月日が流れようとしています。 自己満足の「腕立て伏せの歴史」は、2008年12月31日現在、総計11,948,100回、実施日数5,111日、1日平均2,337.72回となりました。 これまでは自分の世界だけに封印しておきましたが、番組で紹介して頂いたことをきっかけに、恥ずかしながら公開してみようと思います。
数年前、私の家を訪れたプロボクサーである友人Tさんは、床についた汗の跡や、壁に貼っていた手書きによる数千日分の「75回×正正正正正正正正正正…5:40〜6:29」の記録を見て「病気ですよ」と笑ってました…(^-^; その言葉が妙に嬉しかった事を思い出します。 分かってくれる人もいてくれるんだな…素直にそう思えたんです☆
人それぞれ幸せの形は沢山あります。 だから私は他人が信じている幸せに対して、とやかく口出しをしないことにしています(それが第3者に迷惑をかけるものではないなら…自己責任の伴わない自由はわがままですから)。 そして私は私なりの幸せの在り方を今後も追求していこうと思います☆ 番組で紹介されて以来、賛否両論沢山聞かせて頂いておりますが、それらは大変ありがたい私の財産です。 いつの日にか“馬鹿も通り越せば天才になる”…そんな生き様を実現できる事ができたら嬉しいです。そして自分に対してこんな使命感が持てる事を本当に幸せだと思っています。