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- みち 我が “みち”
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 僕の前に道はない。
 僕の後に道はできる。
  高村光太郎

 
もともと地上に道はない。
 歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
  魯迅

いずれも、勤務校の司書の先生が紹介してくださった本の中に書かれていた
強く印象に残っている言葉である…。

過去に私は、「我が道を、自分の力で切り開いていきたい…」
そう思っていた。
今もなお、継続している
“腕立て伏せ”
その典型であり、私の宝物である。

しかし最近、
この現代では、あらゆる道が開拓され尽くした感があり
今後、自分のオリジナルの道を創造していく事が
非常に困難になったのではないだろうか…
そんな気がしている。

以前の私は、他人の足跡をあまり追いたくない主義であった。
しかし今は、チャンスさえあればその跡を辿ってみたいと思っている。

それは決して他人が築いたレールに乗って楽をしたいという訳ではない。
単に、多彩な道の歩き方や、そこから見えてくる世界観を学びたくなっただけだ。
せっかく先人が築いてくださった素晴らしい道が、目の前に沢山あるのだから…

そしていつか…
多くの道を歩みつつ、学んだ事をブレンドしていく結果
私なりの歩き方(スタイル)が確立していったとするなら
ふと振り返れば、そこには
環状線の様な我が “みち”
いつの間にか築き上げられているのではないか…
そんな気もしている。。。

ホームページのトップにも記しているが
私はこれまでに方々で
“みちくさ”をしてきた。
些細なこだわりを一生懸命に持って…

もはや、
オリジナルの“みち”へのこだわりはない
“みちくさ”の軌跡
いつの間にか
オリジナルになれていれば、それは単純にラッキーな事である。。。
2004年 7月


何年か前、勤務校の図書館で、古い紙切れに書き留めておいた
印象深い中国の言葉が 引き出しの中から ひょっこり出てきたので
忘れないように、ここへ書き留めておこうと思う。。

-  車輪の構造は、三十本の輻(や)が
 一つの轂(こしき)に集まっており
 その空間で車輪回転の作用が可能である。
 粘土をこねて器を作る場合
 中空の所で容器としての利用がある。
 戸や窓を開けて室をつくる場合
 部屋の空間の所に室としての利用がある。

意味は...
人は皆、形あるものの有用性に目を奪われがちだが
その有用性は、実は「無」によって支えられており
万物が存在するためには、その根元に
「無」すなわち「みち」がある事を示している。…と言う事なのだそうだ。

この言葉は、HPのタイトルに “私のみちくさ” を掲げているように
私自身の「みち」や、「自分の器」を考える上で...

また、中国拳法の型を捨て去り
総合格闘技、截拳道(ジークンドー)という「道」を創始したブルース・リーの
「以無法為有法 以無限為有限
」 “限界や形式(固定したスタイル)は無い”
という言葉を理解する上で...

そして、建築学という、空間を創造する学問に携わっている者として...

全てにおいて、大変ヒントになった。
この様な事を書くと、また おとうとに笑われてしまいそうだが... (^ ^ゞ

若くしてこの世を去ったブルース・リーが、1960年代にデザインしたシンボルマークです。
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無法をもって有法となし、無限をもって有限となす
と訓読みします。 因みに、中央の陰陽図は
天と地、男性と女性、昼と夜、など
存在する全ての事物が、必ず「対」になる何かと
相互依存しながら存在していることを表現しているそうです。
“天敵”とは文字通りの“敵”ですが、その存在がなければ
全ての生態系のバランスが崩れてしまいます。
事物の「調和」を、現しているのだそうです。

2006年 1月

※「みち端で拾った“宝物”」表紙へ