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- 幸せ 己の幸せに気付けない事が不幸

 食べられない、身体的ハンデを背負っている…etc
そんな境遇にありながらも
自分を幸せだと信じている方達の気持ちを理解しようと努めた事がある。

しかし私にはそれができなかった。
ただただ、理解する事ができない「
無力な自分」の存在だけを思い知った。

あくまで極論であるが、例えば
目が不自由な方の気持ちを理解したくても、自分の目をつぶす訳にはいかない。
食べられない方の気持ちを理解したくても
幼い頃から沢山食べ続けて胃袋を膨らましてしまった私にとっては
試合に臨むためのわずかな期間の減量でさえ、大変苦しく感じてしまう有様だった。

自分の限界を超えたマイナスの世界を
そもそも不幸とは感じていないのだから
その様な境遇に置かれた方々の気持ちを理解しようとするなど
実におこがましい考えであったと言えよう…。

そして私は「
自分の器」の「どん底」や「限界」に再び気付く事ができたのだ。


 先日、私の後輩 N.I の口から
京都「
龍安寺」の茶室前にある「知足のつくばい」の話が出た(→下写真参照)。
この話を聞くのは、茨城県某中学時代の恩師から紹介されて以来、2度目となる。
水戸黄門こと徳川光圀が寄進したと言われるこの「つくばい」には
以下の言葉が刻まれている。

 「
吾唯足知 ( われ ただ たるを しる )

禅の言葉で

 
足るを知る者は貧しいといえども、即ち富めり
 不知足の者は富むといえども、しかも貧し

…と、解釈されるが
私の後輩は、これをより分かりやすい言葉で表現していたので
それをそのままお借りしよう。

 
自分が満ち足りていると感じている人は、
 実際の生活は貧しくても精神的には富んでいる。

また、全ての漢字に「」という文字を含んでいる点も興味深い。

 
口にしたたり落ちる水、それだけで私は満足である。

…という訳だ。

五体満足でありながら
くたくたになる事で、自分を哀れみ、慰め、守りに入ってしまった軟弱者に対し
この言葉をさりげなく紹介してくれた恩師の気持ちが、今は何となく理解できる。
因みに後輩は、この言葉をとても大切に受け止めているらしく
自分で撮影した「つくばい」の写真をPCのデスクトップに掲げているそうだ。

自分より恵まれていない方達の気持ちを理解できないのは仕方がない。
ただし、
その存在を決して忘れてはならない

その上で

己に与えられた幸せに気付き、感謝しながら、生を全うして行く事

これが私の理想であり、課題なのである。

吾 唯 足 知 」 ( 写真提供 : N . I 氏 )
2004年 3月

視野 視野の広さ

 ノミって、凄く小さいくせに 1mぐらい軽々とジャンプしてしまう。
そんなノミを、例えば 高さ15cmぐらいの箱に入れておくと
いずれは環境に適応して 壁に激突しない様
最大15cmぐらいまでしか飛ばなくなるそうだ。
で、びっくりなのは その後は、15cm以上飛べなくなるのだそうだ。
例え箱から出してやっても... もう二度と、従来の様には飛ばない。

広い視野は、常々持ってなきゃいけないってことなのかな。。。
2006年 11月

自由 自己責任の伴わない自由は、わがまま

 道標も何もない砂漠の真ん中に放り出されて
さあ、あなたの好きなようにしなさい。
と言われたら
人間は、これほどの自由はないと、喜んで走り出すのだろうか?

極端な言い方をすると

走りたいから、走る場所がないから…
と言いながら公道を暴走する若者は
さあ、誰にも迷惑がかからない、あの無人島の砂浜で思う存分走りなさい。
と言われ、現場まで連れていってもらえれば
喜んで走り出すのだろうか?

人間は、他人との関係や社会のルールに縛られていなければ
不安で、寂しくて仕方がない生き物だと思う。

郷に入っては郷に従えであり
自由を行使するためには
厳しい自制をしなければならない


わがまま” “好き勝手
これは他人の迷惑となり、他人の自由を奪うので、いわば自由の敵となる。
よって
これを己の自由と謝って解釈してはいけない
そんな気がした。
1999年 12月

※「みち端で拾った“宝物”」表紙へ








































































































































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